労働概念の拡張

東経大学術フォーラムの報告内容です。研究者のかたも学部学生も参加するということで、どのような話をしたらよいのか、悩ましいのですが、「最先端の研究をだれにでもわかるように説明する」という基本方針でチャレンジしてみます。

はじめに

「人工知能の発達でいよいよ労働はいらなくなる」といったセンセーショナルな報道はよく目にすると思います。私も「本当にそうなるのか」としょっちゅう尋ねられます。労働のすがたが変わらないとすれば、その変わらない労働はすがたを消す。当然です。しかし、労働はそのすがたを変えるのです。「すがたが変わるものがなくなるかどうか」となると、これは厄介な問題になります。

目につく現象を追っかけまわす新しい物好きの人たちは、右から見ては「なくなる」といい、左から見ては「なくならない」といい、右往左往するばかり。こうした混乱は「労働はどう変わり得るのか、どう変わり得ないのか」が語れる、新しい経済原論を組み立てることで、はじめて学問的に解決できると私は考えています。

こういうと「でも、そんな理論なんか、本当にできるのか」という声があちこちから聞こえてきそうです。理論は「変わらない」法則を対象にするものだと信じているのでしょう。とはいえ、信じている方々と信念の次元でいくら議論しても時間のムダ、何はともあれまずは「できるかできぬか」実際に試してみたいと思います。

これまでの労働概念

「労働価値説」

はじめに断っておきますが、ここで「変わる」といっているのは、もちろん「価格が変わる」というような個々の要素・要因の変化ではありません。価格の変化を支える基盤となっている市場の「構造」が変わるという意味での「変わる」です。こうした構造変化を、個々の要素・要因の変化と区別して「変容」とよびます。

さて、この「構造が変わる」という問題を考えようとするとき、マルクス経済学は強力なパワーを発揮します。とはいえ、これは潜在能力の話。その真価を引きだすには、何層にも降り積もった固定観念を打ち破る覚悟、『資本論』に書いてあることでも正面からもう一度疑ってかかる気概が必要です。これから考えようとしている、労働の場合はとくにそうです。

マルクス経済学では伝統的に「労働」はつねに「労働価値説」に縛りつけられてきました。ただ「労働価値説」に関して「解かれるべき基本問題はすでに解かれた」と私は考えています。こう言うとたちまちまた異論百出、収拾がつかなくなるのですが、本日はこの話はしません。詳しくは「マルクス経済学を組み立てる」を御覧ください。議論はしないと断ったうえで、本日のテーマに関わる点のみ、少しだけ触れておきます。

「労働価値説」は次の二つの命題から成り立っています。

  1. 商品の生産に直接間接に必要な労働時間 t が、価格から独立に、生産条件だけで客観的に決まる
  2. この投下労働時間 t が価格の基準を規定する

命題2に関しては転形問題をふくむ一連の論争が展開されてきました。私は「生産条件だけで客観的に決まる」という「客観価値説」が重要であり、投下労働量に比例した価格を規定し、この価値価格が生産価格に「転形」するという説明は必要ないと考えています。

命題1に関しては ①必要な諸条件を明確にすれば投下労働量は客観的にきまること、②投下労働量が純生産物の分配をはかる基準として有効であること、この2点がポイントだと考えています。『資本論』の搾取論は、さらに③「労働力も他の商品と同じようにその再生産に必要な労働時間によって決まる」という規定を加え、等価交換という市場のルールに基づいて剰余価値が形成されるという命題になっています。マルクス経済学では「労働力の再生産」という概念が広く共有されていますが、私はそもそも労働力に他の商品と同じ意味で「生産」という概念を適用することが誤りのもとだと考えています。これも詳しくは『労働市場と景気循環』第1章を御覧ください。要するに、投下労働量を計算することには固有の意味があること、しかし、投下労働量が価値価格を決定し、その価値価格が生産価格に転化するという二段構えの説明によらなくても、客観価値説は充分に説明できること、これが私の結論です。

「考えるべき問題」は、この先にあります。命題1のための①の諸条件は「置換可能な労働」の存在が前提となります。これは、社会的純生産物の分配の基本原理を解明するために必要な「仮定」だと私は考えています。注意すべきは、「解くべき」課題から切り離してこの諸条件を絶対化すると、本来、労働に関して他に「考えるべき問題」を見失うことにもなります。「労働価値説」の陰に隠されてきた、未知の「考えるべき問題」が存在するのです。

例えば現在の労働を思い浮かべてみましょう。情報通信技術が急激に発達し、労働のあり方も大きく変化しています。こうした新しい変化は、原理論の課題にならないのだとはじめからサジを投げるのではなく、資本主義のもとで歴史的に変容する労働を捉えられるような新しい理論の可能性を探ってみるべきだろうと思います。これが今日の話の眼目です。そこでまず、「労働価値説」のための労働概念のどこに盲点が潜んでいるのか、三点ほど指摘してみます。

技能なき労働

『資本論』は「労働価値説」とそれに基づく「搾取論」のために強い前提をもうけてきました。その最たるものが「単純労働化仮説」です。労働を量として合算するには、完全に互換的な労働を考える必要があります。たしかに不熟練労働が広範に存在するという想定は、この条件を満たします。しかし、たとえば、資本主義のもとで労働の実情がどんどん単純労働に近づくというかたちで根拠づけようとすると、人間労働本来のすがたを捉えそこなうことになります。熟練今回の話のなかでは、「熟練」という用語は「技能」「スキル」と同義に用います。英語の skill, ドイツ語の Geschicklichkeit ではなく Fertigkeit のほうに当たります。の概念を理論的に分析すれば、抽象的な労働の互換性の要請は、たとえば、一定水準の成果を一定時間で達成できる標準化された「型」に熟練を型づけ casting することでも実装できます。

熟練をまったくもたない「裸の労働力」の実在を最初に仮定して、あとから熟練なるものが労働によって生産され付加されるというかたちで「労働価値説」に接合しようとすると、「熟練労働の単純労働への還元」という出口なき形式論に迷い込んでしまいます。熟練なるものが、どのような内部構造をもっているのか、こうした基本問題が隠れてしまうからです。

手段なき労働

人間はもちろん素手で外部の世界に働きかけるわけではありません。どんなときにも、何かしらの労働手段をつかいます。ただ「労働価値説」では、どのような労働手段を用いようと、労働は労働として時間単位で加算できることを前提としています。これはそもそも「労働時間」といったときに実は自明視されることであり、ミクロ経済学ではもっと素朴に「労働 L と資本 K の代替関係」が想定されています。それはともかく、労働と労働手段の関係は、人間労働の本質を分析する「労働過程」において、もっと一般的に掘り下げておくべき問題です。

たしかに『資本論』は資本主義のもとで急激に発達した労働手段すなわち機械に焦点が当てられています。当然、労働手段をつかう労働だけではなく、労働手段を生産する労働も登場するのですが、新しい労働手段を工夫し生みだす活動は労働概念の外部に位置づけられています。「機械が発達すると労働力は必然的に不要になる」という通念は、いくつかの暗黙の前提に基づくものですが、その一つに労働と切り離された「技術」の想定があります。技術進歩は労働の外部で独立に進み、それが機械の発達というかたちをとって人間の労働を駆逐すると考えられるわけです。

結合なき労働

「労働価値説」は、個々バラバラな主体の労働を前提とします。こうした個別化された労働主体の想定から出発して、後から労働の結合を問題にするのです。協業と分業は、生産力の上昇によって労働力の価値を引き下げる方法として、「相対的剰余価値の生産」のところで、はじめて考察の場に引きだされます。『資本論』の「労働過程」では、目的をさきにきめそれを意識的に追求する活動が、人間を動物と区別する本質的特徴として強調されます。しかし、この活動は、個々の労働者の内部で閉じられており、他の労働者と結合する原理は考察されていません。目的を共有し自由自在に結合することで、新たな次元の社会的能力を生みだすところに、人間の最大の特徴があるということもできます。残念ながら『資本論』の「労働過程」にこうした観点を見出すことはできません。

たしかに結合労働の捨象は「労働価値説」には必要な仮定です。N人なら一人のN倍の労働量になるから、労働時間の加算も意味をもつわけです。説明の単純化のための「仮定」であるならバラバラな労働も、「労働価値説」あるいは「客観価値説」や、それに基づく「剰余価値論」の基本を理解するうえで有効です。可能性として「結合なき労働」も存在します。結合したとしても、それは全社会で一つになるわけではありません。複数の結合労働が存在するとすれば、社会全体の分配関係を考察する場面では、複数の結合なき労働が存在すると仮定して、社会的な純生産物の分配に焦点を当てるのは間違った方法ではないでしょう。しかし、この「仮定」を原論全体で維持する必要はありません。無理に維持しようとすると、人間労働に特有な結合能力が理論の埒外に放逐されることになります。

理論空間

次の二点がここまでの結論です。
①『資本論』第1部の骨格をなす剰余価値論と蓄積論において、その量的分析に投下労働時間を用いることは有効である。ただし、このことは「商品が投下労働時間に比例した価格で売買される」という命題(本来の「労働価値説」)も「労働力商品が他の諸商品と同じくその生産に直接間接に必要な労働時間によって売買される」という命題(本来の「搾取論」)を必要とするものではない。
②資本主義における労働の変容を捉えるには、労働概念をこの前提の枠に無理に押し込めず、より一般的な内容に拡張する必要がある。

ここで理論の構成のしかた(理論の「適用方法」ではなく「展開方法」)についてコメントしておきます。ポイントは、②で概念を拡張したからといって、ただちに、単純化された①の前提を変更する必要はないという点です。両者は異なる課題を解明する相対的に独立した理論空間を構成し、各々の理論空間に属する前提や基本概念は、それに応じてそれぞれ固有の特性を付与されます。ここで「理論空間」というのは、一定の基本課題を解明するために、一群の諸前提を基礎に構成された演繹体系のことで、個々の理論空間は、相互の関連を明確にすることで、上位の理論空間のサブ空間として位置づけられます。

篇、章、節などの篇別構成にもとづく既存の原理論のテキストはだいたいこのかたちになっているのですが、理論空間のネライは、篇、章、節ごとにもう少し隠された諸前提を示しその関係を明らかにしてゆこうという点にあります。同じ物理学といっても、ニュートン力学と相対性理論、あるいは地球物理学と宇宙物理学は、それぞれ異なる理論空間を構成しています。同名の個別要素であっても、それぞれの理論空間に属する要素として、比較検討されるべきものです。①において、投下労働時間を計算可能にするのに単純労働を仮定したから②の労働の変容では単純労働化の深化を説くべきだとか、②で熟練を考察するなら①でも熟練労働の単純労働への還元を説く必要があるといった、ナイーブな思考からはそろそろ卒業するときです。

労働の変容

以上のように方法論を整理することで、熟練(技能)、技術、組織(労働の結合)などを取り込むかたちで労働概念を拡張し、歴史的な環境のなかで、労働の姿がどのように変わってゆくのかという問題に、原理論の側から光を当てることができます。もう一度断っておきますが、これは原理論で「不可逆的な歴史的変化」すなわち「発展」がすべて説明できるという意味ではありません。原理論を現実に適用しようとすると、すぐこれを決定論と解釈して、お決まりの反論を鸚鵡返しにする唯物史観アレルギーの人がいるのですが、ここでいっているのは原理論でも、歴史的発展の基礎にある「有り得る分岐の可能性や構造変化「変容」です。「変容」と「発展」は異なる概念です。の契機を示すことができる」ということです。

こうした事情は「理論的に説明可能な貨幣は金貨幣だけだ。それ以外は段階論で語るべし。」という主張と通じています。こう信じている人からみれば、同じく、19世紀には機械制大工業が普及したのであり、こうした傾向を延長した先に想定される純粋資本主義では、単純労働以外の労働は考える必要なし、ということになるのでしょう。この種の「紋切り型の純粋資本主義」と手を切り、貨幣にしても労働にしても、もっと抽象レベルをあげて、ここが変容論的アプローチのポイント。変わる現実に「近づく」ために特定の現実から「遠ざかる」という逆説です。眼前の現実を説明しようとして、抽象レベルを落とし、ナマの現象を理論の言葉で語るだけの類似品に注意。理論的に構造変化を考えられる原理論を開発しようというのが「変容論」のネライです。

前項で提示した理論空間はこのネライに応える試みでした。「労働価値説」あるいは「客観価値説」で社会的再生産の構造や純生産物の分配を説明するには、それに応じた理論空間が必要なのです。理論空間というのは、芝居でいったら書割 backdrop のようなもので、どの幕にもそれ相応にマッチする背景があるものです。剰余価値論という第一幕では適切な書割で「解くべき問題」をシッカリ解くべきです。しかし、それが労働に関して「考えるべき問題」のすべてではありません。「はたらく」とはそもそもどういうことか、それがどのようなすがたをしており、そして今どのようにすがたを変えようとしているのか、こうした問題を考えるには、新しい書割が必要になります。演じる役者は同じ労働でも、舞台が変われば役割も変わり、演じ方も変わってくるのです。

「労働過程」の盲点

こうした観点から振り返ってみると『資本論』第1部第5章第1節「労働過程」はたしかに独特な意味をもちます。この節は「労働価値説」にもとづく「搾取論」に対して、一風違った趣を帯びています。そこでは価値を形成する労働、商品に対象化された労働という一連の議論の流れからいったん離れ、人間の活動を特徴づけるものとして労働なるもの一般の本質が論じられています。宇野弘蔵がこの「労働過程」を「労働・生産過程」に拡充し、「あらゆる社会に通じる経済原則」をそこに読み取り、「原則が法則を規定する」というかたちで、独自に労働価値説を「論証」しようとしたことはよく知られています。その正否はともかく、『資本論』の「労働過程」がこうした拡張を誘発する力をもっています。ここでは労働が価値論のサーバントと違う独自の役割を演じているのです。

とはいえ、新たな書割が『資本論』の「労働過程」でよいかというと、そうはいきません。よく知られているだけに、この書割のもとで労働概念を拡充してゆけばよさそうに思えるのですが、ここには落とし穴があります。研究者相手に議論をするには、『資本論』のテキストに即してなにが問題なのか、どこに盲点があるのか、キチンと「解釈」してみせる必要がありますが、今日はそういう場ではないので詳細は割愛します。詳しくは「熟練内包的労働の一般規定 — オブジェクトとしての労働」(『季刊経済理論』 56-2,2018)などをご覧ください。

ここでは、何が欠けているのか、結論だけ示しておきます。

意志と身体の未分離
『資本論』のテキストでは、意志が身体を規制し、身体がモノに作用するという二層の関係が、単層の身体の作用にパッケージされています。なにが言いたいのかわかりづらいと思いますので、誤解をおそれず簡単に言えば、要するに、本来、自然過程を制御する労働「能力」であるべきものが、物理的な労働「力」の支出になっているということです。
手段の欠落
「労働そのもの」を考察するところで、目的を実現する「手段」を省き、あとから「労働対象」「労働手段」を追加する構成になっています。全部あわせれば、「労働過程」に「労働手段」が不可避なことが強調されているのだからよいではないか、という人がいると思いますが、こうした要素論があとあと尾を曳き、「労働手段」としての「機械」が発達すれば「労働そのもの」はいらなくなると考える結果になるのです。
他者の不在
労働とは人間に特有な目的意識的活動だという規定は、この目的がどこからどう生まれるか、という問題を含んでいます。一つの答え方は、それは外部から与えられるのだ、自分の欲求から離れてはたらける点に動物の活動との決定的な違いがあるのだ、というわけです。正論です。ただ、その先があります。この説明は、労働を著しく受動的なすがたにしています。そして後になると、賃金労働者が資本家の与えた指令どおりにはたらくというすがたにピッタリ重なるわけです。しかし、労働には漠然とした欲求を明確な目的に設定するという、けっこう厄介な過程が含まれています。この側面を切り落としてしまうと、商業活動や対人サービスなどは、本来の労働ではない、という通念をいつまでたっても打破できません。

こうした盲点を意識しながら、拡張された労働概念を新たに組み立てなおしてみたいと思います。

労働のコア概念

労働の定義

はじめに「労働」という用語の定義を与えておきます。ここでは「欲求・必要を目的意識的に実現する活動」を労働とよぶことにします。これはあくまで用語の定義であり、考察対象に外側からラベルをはったに過ぎない点、あらかじめ注意しておきます。これから、この用語が指す対象に、明確な内容を与えてゆくことでしっかりした「概念」に仕上げてゆきます。

マルクス経済学では、『資本論』のBegriffの日本語訳として概念という用語は多用されてきました。それは多分に17、8世紀ドイツ哲学をバックグランドにしたものになっています。経済原論では、たとえば一つ一つの商品の特徴ではなく、どの商品にも当てはまる一般的な性格が対象となるので、当然、後者を意味する商品概念が中心問題になるわけです。ただこうした概念的把握は、オブジェクトという考え方をベースにした最近のプログラム言語で、もっと明示的におこなうことができるなっています。ここではオブジェクトといっているのは、属性 propartyとそのはたらき・振るまい方 method で構成される構造体です。このオブジェクトという捉え方は商品や貨幣にはピッタリなのですが、労働に関しても、内部構造をもたない従来型の「労働力」の限界を打破できる点で、かなり有効だと思っています。

二つの世界

紛れのない書割を描くために、ここではわれわれを取り巻く世界を「知覚」perception できるかできないか、で二分しておきます。この二分法とピッタリ一致するかどうかはともかく、英語で countable,uncountable で名詞を二分する、あれを思い浮かべてみればよいでしょう。客観的に計量計測できる対象と、それを超える超越論的対象の区別と考えることもできます。正式には客観的計量可能性の有無がここでのメルクマールとなります。

さらに、だれがはかっても同じになる対象をカタカナで「モノ」と表記することにします。自然科学が対象とするのは、基本的にモノの世界です。モノであるには最低限、計量計測できればよいのであり、かたちをもった有体物かもたない無体物かは問題ではありません。有体物、無体物というのはもともと法学の用語だと思いますが、経済学でも昔から、前者を財とよび、後者をサービスとよんで区別してきました。しかし、サービスも計量可能であれば財と同じく、モノとして一括すべきであり、財かサービスかは意味をもちません。財、サービスという用語はここではボツとします。

身体の二元性

このような二分法がなぜ必要なのか、あるいは有効なのか。それは「労働者という人間」ここでは具体的なイメージを払拭して抽象的に「主体」とよぶことにします。、労働する「主体」の特徴をとらえるための工夫です。「意志」(〜しよう)や「欲求」(〜したい)という属性は知覚できませんが、両者は知覚できる世界に半分は属する「身体」に結びついています。五感を具えた身体を介して「欲求」は生まれるわけであり、手足を自由に扱うことで、はじめて何かしたいという「意志」もはたらくわけです。

モノとモノとの反応過程

「手段」も「目的物」も、それ自体は知覚できる世界に属するモノです。しかし、手段か、目的かは主体がきめるもので、モノに属する性質ではありません。モノは自然科学が解き明かす自然法則にしたがうのであり、この法則はどんなに主体ががんばっても変えることはできません。このモノの間の作用・反作用を「モノとモノとの反応過程」とよびます。金槌で釘を木材に打ち込むのも、粘土を加熱して陶器にするのも、みな自然法則が支配している「モノとモノとの反応過程」です。そして身体もこのレベルで力としてはたらくかぎり、「モノとモノとの反応過程」の例外ではありません。しかし、「労働力」をこのレベルのエネルギー支出に還元するのは、目的意識的活動という定義から完全に逸脱します。「労働力」を注入すれば、それがさまざまな物質に凝固して、どのようなモノでもつくれる、といった妄想からは手を切りましょう。

目的意識的

知覚できる世界の諸現象に対して、「目的物」を設定するのは主体です。主体の意図は、この目的が実現するように「〜しよう」とするわけです。労働のコアになるのは、この「〜しよう」「〜させよう」という意図的な活動です。この行動のしかたを「目的意識的」とよびます。もちろん、いくら「〜しよう」「〜させよう」と念じても、自然法則に反することはできません。なにが実現可能なのかは、主体が知るべきことです。

コア概念の拡張

三つの基本相

労働概念はこのコア定義だけでは充分ではありません。そこには大きくいって、二つの方向への拡張が含まれています。第一の拡張は、欲求に対する目的の設定に、第二の拡張は、目的に対する手段の設計に関わります。さらにこれらの拡張にあわせて、『資本論』の「労働過程」で「労働そのもの」とされてきた内容も更新しなくてはなりません。こうして、労働は、「目的設定」「手段設計」そして「逐次制御」という三つの基本相をもったオブジェクトとなります。まず第一の基本相からみてゆきましょう。

第1相:欲求の定式化

「目的意識的」というのは、先に目的をきめてこれをつねに見つめ追いかけるということですが、この目的設定は、主体の「欲求」ないし「必要」に結びついています。ただ、この欲求は漠然とした「〜がほしい」「〜がいる」という欠乏感で、この「〜」が何によってどのように満たされるのかは漠然としています。目的意識的活動では、それにはどのような「はたらき」「やくだち」が必要なのか、不定型な欲求を具体的なイメージに固めなくてはなりません。求められているのは、明確な機能を具え、量的に把握でき、かつ実現可能な、この世の「モノ」のイメージなのです。たとえば、一個の目玉焼き、一通の封書の配達、4分間の胸部MRI検査等々が、目的のモノのすがたです。

いずれにせよ、従来外部に押し出してきた目的設定なのですが、ここではとくに知覚できないイメージを知覚できるモノにするという局面を明示するために、目的となる「はたらき」「やくだち」という抽象的性質に対応し、その機能を実際に担うモノを「目的物」とよぶことにします。「目的=目的物+はたらき」です。

もちろん同じ主体の内部であれば、この過程はほとんど意識されず、自然に実現されるはずです。自分自身の空腹感ならはじめから、たとえば目玉焼きのかたちで現れるでしょう。さきにモヤッとした空腹感一般がまずあって、それをなにでどうやって満たすか、悩むことはありません。だから、この過程は「目的意識的」というスコープの外部にでてしまいます。この基本相は萎縮し、労働は次の基本相からはじまるようにみえます。

陰伏的なこの基本相が明瞭なかたちで立ち現れるようになるのは、ある主体の欲求を別の主体が目的として設定するケースです。この場合には、「〜がほしい」と思っているいる相手に、「〜ならしてやれる」か、考える必要があるわけです。欲求が具体的で輪郭のハッキリした「はたらき」「やくだち」に定式化されるのは、多くの場合、主体間の関係においてであり、その基礎となるのは言語を中心としたコミュニケーションの能力です。ヒトという生物種がもつ優れたコミュニケーション能力は、人間労働の重要な契機となるのです。

商品売買で覆われた世界に生まれ育った者なら、それは多種多様な商品からの「選択」の問題にみえるでしょう。これは一つのかたちです。この場合でも実はここに、モノを通じて間接的に顧客の欲求を定型化する商業労働が介在しています。しかし、これまでの原論では、商業の本質が無言の「選択」とされるとともに、商業は本来資本家の活動であり、商業労働はそれを補佐する賃労働者の労働に限定され、「商業労働は価値を生みだすのか」という『資本論』由来の問題ばかりに議論が集中してきました。

必要なのは、もう一段抽象レベルをあげて労働概念のなかに、欲求の定式化という基本相を埋め込むことです。商業労働は、欲求の定式化という基本相が資本主義のもとで受けとるサブクラスとして、その特徴を分析する必要があります。そしてまた、この基本相がすべて商業労働になるわけではない点にも留意する必要があります。この基本相がどのようなかたちで実装されるのか、その大半が資本家を補助する商業労働にのみ込まれるのか、あるいは別の自立したかたちをとるのか、ここには家事労働や社会的生活のためのケア労働が独自の広がりを含め、外的条件を明示して考えるべき別次元の問題が広がっています。いずれにせよこの意味で、オブジェクトとしての労働は変容の契機を秘めているのです。

第2相:手段の設計

目的と手段

第二の拡張に移ります。ポイントとなるのは、目的物に対する手段の存在です。目的意識的活動といっても、目的物がきまれば、後はそれに向かって進めばよい、というわけではありません。ミツバチが巣をつくる過程を人間の労働と比べた、あのよく知られた『資本論』の「労働過程」のイラスト(挿絵)では、人間はアタマのなかで六角形の巣のイメージを描いた後、ただちに作業に取りかかるような印象をあたえます。もちろん、このあと、人間は道具を「つかう」点が強調されるのですが、問題は「労働そのもの」について論じたところでは、道具を「つくる」過程がでてこない点にあります。道具はすでにつくられて与えられていて、もっぱらこれを「つかう」ところに人間労働の特徴があるとされているのです。

しかし、「目的物」を決定したあとになされるべき活動は、そのための道具、さらに一般的いえば手段を組み立てることです。一つ一つの道具をつくることはもちろん、それらを組み合わせ、手順を工夫し、体系化することで一まとまりの「手段」をつくりだす活動です。手段と目的物の間にあるのは「モノとモノとの反応過程」であり、それは自然法則にしたがうのですから、整合的な手続きをふめば、基本的にはだれがやっても同じ結果が再現するはずです。

技術

このように再現性を具えたモノとモノの反応過程を通じて意図した結果が必ず現れるとき、この過程には「技術」があるということにします。だれがやっても同じ効果をもつ技術そのものは、主体の属性ではなく、対象であるモノの属性です。しかし、それを知らない主体には利用できないという意味では、「知る」という主体の契機を含みます。技術は主体によって「発見」されるべき対象です。そして、この発見のための活動が拡張された労働の概念のうちに含まれるのです。

ふつう「技術開発」というと、企業や組織でそれを専門に研究する活動を具体像として思い浮かべるかもしれません。しかしいまここで考察しているのは、ずっと抽象化された概念であることに注意してください。人間の労働が、直接目的物に素手で(身体で)はたらきかけるかたちをとらず、体系化された手段を通じて、間接的に意図した結果を実現しようとするものであるかぎり、多かれ少なかれ、手段の体系化をはかる広範な活動がつねに必要となります。この活動を労働概念のなかに可能なかぎり抽象化して取りこんでおくことがポイントです。ここには、労働が変容するもう一つ別の契機が潜んでいるからです。

もちろん技術といっても、それが適用される過程は、物理学や化学の実験のように整備された環境のなかで進むのではない以上、制御できない攪乱要因によって、たえず本来の目的物から逸脱する可能性を伴っています。したがって、このすぐ後に述べるように、主体がたえず監視し逐一調整を加える必要が残ります。この調整は手段の体系が複雑になれば、それだけ増大することにもなります。ただ、知覚できる世界に対する自然科学的な知識が深まり、手段が精密に体系化されれば、それに比例して、モノとモノの反応過程の途中に主体が干渉する必要はなくなってゆくはずです。

自動反復

技術が存在するということは、モノとモノとの反応過程に多かれ少なかれ「自動性」が含まれていることを意味します。金属は一定の温度に達すれば溶けるのであり、釘に一定の力を加えれば木材にめり込む、当然です。もちろん、この過程は、炉に石炭をくべたり、金槌でたたいたりしないかぎりはじまりません。その意味では、主体の関与が必要です。すべてがはじめから自動なのではありません。ただ、モノとモノとの反応過程の基底には、主体の関与なしに進行する自動性の契機が存在することは注意を要します。

技術にはさらに、人間の意志に左右されないという「自動性」だけで終わらない面があります。「反復性」です。特定の初期条件をセットすれば必ず予期した結果が得られるということは、同じ初期条件に戻れば繰り返し同じ結果が得られる反復型のループ、つまり閉じた過程が存在するということです。技術を発見する労働からみると、一回の反復原理(終点を見極める技術も含めて)がわかればよいので、過程を何回繰り返しても、発見は一度だけ、発見する労働が何回も必要となるわけではありません。「自動的」というのは、再現性をもつ過程が、さらに反復されることだ、と考えるのが妥当です。

自動性の有無で機械を道具から分離し、機械が労働を駆逐するという言説はひろくおこなわれていますが、この分離は厳密には困難です。このように記述できる現象がなかったというのではありません。ただそれは、たとえば英国産業革命期の糸車と紡績機といった特殊な労働手段をめぐって生じた歴史的現象で、それ以上に一般化できる原理ではありません。この問題は、このあと、機械を「操作する労働」としてもう一度考えることにします。

モノとモノの反応過程を工学的に分析すると、そのコアに自動反復の基本原理が浮かびあがってきます。もちろん、現実の複雑な生産過程をこのように単純な原理に還元することは無理があります。すべてに当てはまる原理だというのではありませんが、抽象化してゆくと拡張した労働の一方の極に自動化の原理が内包されているのです。繰り返しますが、労働なしに自動化が空から降ってくるというのではありません。技術は発見されるものであり、発見は — 拡張された労働概念にしたがえば — 労働によるのです。ただ発見は基本的に一回限りの事象です。再発見という言葉はありますが、厳密にいえば同じ事象に対して発見の反復はありません。そして、発見される技術と発見に必要な労働の間にも、定量的な比例関係はありません。発見そのものはモノとモノとの反応過程ではないからです。発見には偶発性がつねに伴うのです。ただ、いったんある技術が発見されると、それが適用される過程では、一定にインプットで一定のアウトプットが得られるという比例関係が反復可能となります。ある技術の発見に必要な労働量は不確定だが、発見された技術を用いる生産には確定性があるわけです。ここではこれ以上踏みこみませんが、すでに述べた客観価値説の基礎はこの生産過程の技術的客観性にあります。

第3相:コントロール

事後調整

ここで第三の基本相に進むことにします。この相は労働概念の第三の拡張によるものではありません。第一、第二の拡張は、当然これらと整合するように、従来の労働概念の深化を求めます。第三の基本相はこの結果です。『資本論』の「労働過程」における「労働そのもの」で強調された「はじめに目的物をきめ、次に実行に移る」という「構想と実行の分離」は、動物の活動とはハッキリ区別される人間労働に固有な特性を明らかにしたものと高く評価されてきました。しかし、上記の二つの拡張は、「実行」の内部構造にさらに一歩踏みこんだ分析を可能にします。この観点からふりかえってみると、手段の体系を括弧に入れてしまう「労働そのもの」では、身体を動かす局面のみが「実行」にみえてしまう欠陥をかかえていることがわかります。

二つの拡張をふまえてみると、「実行」の中心となるのは事後的な調整、コントロールです。事前にある程度、手順が整えられ、手段が組立られているのですから、そのあと必要になるのは、予定どおりに過程が進まない場合の調整、目的から逸れた場合の軌道修正ということになります。五感によって過程を観察しながら、手足を使って手段を操るという身体活動がその基本となります。その意味では身体的な「力」の発揮を伴うのですが、それはあくまで過程を逐次的にコントロールする「能力」の一環としてです。すでに述べたように「手段の設計」が入念になされていれば、その分こうした逐次的な介入は不用になります。逆に基本相が省かれればそれだけ、事後的な調整として労働の第三相の比重が高まります。むろん第二の基本相の労働には成果との間に偶発性を伴うのであり、単純にこの第三の基本相の事後的調整の労働との間に、量的なトレードオフの関係があると考えるのは浅はかです。論理的にたしかなことは、人間が発見する技術には限界があり、予見できない攪乱要因をたえず感知し、手足をつかって操作する活動が多かれ少なかれ必要となるという点までです。

技能

労働の「実行」が、道具であれ機械であれ、ともかく手段を使うものであることがハッキリすれば、労働には熟練が付きものであることもわかります。『資本論』の「労働過程」を読むと、「労働そのもの」を論じたパラグラフでは、労働手段がでてきませんので、手段を操る技能の存在が見失われることになります。「労働そのもの」の中身は単純労働になり、熟練はこの単純労働に後から付加される(「生産」される)とみる通説になるわけです。しかし、労働が手段を使うかぎり、その手段の特性に応じた一定の技能(以下では「熟練」「スキル」の二語は同義に用います)が不可欠になります。労働概念は基本的に熟練を内包するものでなくてはならないのです。

ただ、この熟練については注意すべき点があります。それは、手段を使うことにともなう「使いこなし」の能力であり「慣れ」であるという点です。どのような手段を使うかによって、あらかじめ必要な能力は枠づけられるのであり、手段の特性をこえた熟練一般があるわけではありません。自動車を運転するには、それなりのトレーニングが必要であり、旋盤を操るにもそれなりの訓練がいります。しかし、これらは一定の自動性+反復性をもった機械がさきにあって、これに適応した身体のはたらきが求められるわけで、自動車が運転できれば旋盤も操れるといった互換性は基本的にありません。その意味でこの種の技能は、どこまでも上達するような能力一般ではなく、一定の型への嵌め込みですから、しばしば免許や資格のようなかたちで最低限の水準が与えられるわけです。総合的な身体能力であれば、もちろん限度はあるにせよ、運動競技のように、努力に応じて個人差が広がる余地があり、この差が重要になります。しかし、機械操縦型の技能に究極の技があるわけではありません。型づけられた労働として、さまざまな標準的な技能が求められるわけです。

ここでは、手段を前提にした使いこなしの能力を「技能」とよび、手段の体系化によって、だれがやっても同じ結果になる前述の「技術」と区別します。「技術」が知覚できるモノの世界に属するとすれば、技術を逸脱するところで作用する「技能」は主体に属する概念です。そしてそのかぎりでは「技能」にも、たしかに主体の身体の差違を反映した個体差がある程度の幅で生じますが、それは主体の身体に帰属する「素質」Geschicklichkeit ではなく、特定の手段を前提に型づけされた熟練 Fertigkeit であり、それぞれの手段に応じた最低水準が標準として存在するわけです。

操作操縦

「実行」の内部構造を分析してゆくと、機械が労働を排除するという通念の誤りもハッキリします。「自動性」+「反復性」を体現する手段が「機械」だとすると、それは同じループを廻るだけであり、開始・停止はもとより、加速減速・方向転換をはじめ、さまざまな操作・操縦が必要となることがわかります。もとより、こうした操作の余地が少ない自動機械もありますが、20世紀に発達した機械の多くは、運転手やオペレーターが操作操縦する必要があるものでした。『資本論』の「機械と大工業」をよむと、紡績機や織布機のような自動性が高い機械に注意が向けられており、こうした自動装置が人間労働を駆逐してゆくような印象を受けます。しかし、『資本論』にでてくる範囲でも、たとえばミシン sawing machine がそうですが、旋盤も自動車もみな、操作操縦を必要とする機械です。操作操縦する機械の一方の端には、自動性と反復性を基本とする高速強力な装置があるのですが、目も耳も持たない装置は、あくまで主体が五感で状況を判断して、方向を変え停止と開始を命じる主体をもう一方の端に必要とするものだったのです。

たしかに多くの労働のなかには、素手で(「身体」で直接)目的物にはたらきかけるタイプのものもあります。荷物を担いで運ぶような労働です。こうした単純労働は、荷馬車やトラックによって駆逐されるようにみえるかもしれません。しかし、トラックが登場しても労働がなくなるわけではありません。操作操縦型の労働にかわるのです。もちろんこれによって、同じ荷物を運ぶのに今まで10人かかったのが、一人の運転手ですむことはあります。トラックをつくる労働を加味しても、10人以下になるのはたしかでしょう。しかし、これは10人の運転手が10倍に荷物を運送できるようになるのであって、必ずしも9人の荷運人足が不要になるとはかぎらないわけです。労働の「実行」の内部構造を分析せず、変容するという観点を見失うと、機械と労働の代替といった誤謬に陥ることになるのです。事実20世紀が終わった段階でふりかえってみれば、この世紀を通じて、労働の主流が操作操縦型の労働に変容していったと考えるほうが、機械によって労働が単純化され排除されていったというよりも、ずっとリアルにみえます。

終わりに

ここまで、目的意識的に欲求を充足する活動という労働のコア定義から、労働概念の拡張を通じて三つの基本相を導きだしてみました。かなり抽象的な議論になったのですが、ネライは歴史的に変わってゆく労働のすがたを統一的に捉えることにあります。労働の内部構造に踏みこみ、どこにどのような外的諸条件を受けとめる契機があるかを明確にすることで、労働の変容を分析できる理論をつくることが目的でした。

この拡張された労働概念がどの程度有効かは実地に確かめるほかないのですが、今回はこれを試みる時間はありません。私自身は、20世紀末にはじまるコンピュータサイエンスと情報通信技術の急速な発展が労働の世界をどのように変容させてきたのかという問題に強い関心を抱いてきました。労働概念の拡張が必要だと考えたのも、こうした関心に基づくものです。どのように使えるのかを話さないと、この種の演繹型の理論の意義はわかっていただけないと思いますので、最後に二、三の例を挙げて終わりにしたいと思います。

はじめに第三相の操作操縦型労働の変容について。コンピュータサイエンスと情報通信技術の発達が、現在このタイプの労働に強いインパクトを与えはじめています。すでに触れたように、機械は労働を不要とし失業を生むという警告は、新たな技術が登場するたびに繰り返されてきました。しかし、これまでの機械は一般に、一方の極で大量高速処理を可能にすると同時に、他方の極にそれを制御する操作操縦型の労働を必要とする両面性を具えており、そう簡単に人間労働を駆逐することはありませんでした。しかし、現下の技術革新はこの操作操縦型の労働を自動化する可能性を秘めています。人間が目でみてハンドルを切るという操縦は、センサの高度化と画像をデジタルデータとして処理するコンピュータの性能がアップするなかで自動運転に変わりつつあります。今度こそ(いつも今度こそなのですが)、労働が不要になるのではないかと思われるかもしれませんが、それは労働の第三相だけをみているからです。第二相まで視野を広げてみれば、こうした自動化のために手段を構想する新しいタイプの労働が必要になってきているのがわかります。コンピュータによって自動化されるからといって、そのコンピュータ自身が自動装置だということではありません。人間がプログラムを書かなければ動かない現存するコンピュータは、基本的に労働吸収的な道具です。プログラミングに限らず、第二相を視野に入れればそこのさまざまなかたちで新しいタイプの労働が出現しているのがわかります。労働概念の拡張はこうした変容を捉える基礎となるわけです。

コンピュータサイエンスと情報通信技術の発達は、労働の第一相の対しても強力な変容を引きおこしています。相手の漠然とした欲求を明確な目的に定式化する労働ではコミュニケーションが決定的な役割を果たします。情報通信技術は英語ではInformation and Communication Tecnology ですが、日本語のカタカナでコミュニケーションといえば一般に意思疎通ことで、主としてコンテンツの話です。この意味のコミュニケーションに必要とされてきたのはこれまで主として、本文で定義した「技術」ではなく「熟練」のほうでした。ただ、遠距離のコミュニケーションには、郵便にせよ電話にせよ何らかの通信媒体つまりメディアが不可欠なわけで、この意味の 通信 Communication はモノの世界に属し、それゆえ「技術」が存在するわけです。コンピュータをノードとするネットワーク通信では、文字はもちろん、画像や音声も含め、すべてデジタルデータとして同じしくみで転送可能となり、今までにないレベルの Communication の世界が広がったわけです。これが、従来のコミュニケーションの「熟練」に依存してきた第一相の労働のあり方を大きく変えることは容易に推察されます。こうした変容もまた、原理的な労働概念の拡張によって分析することができるようになるわけです。

これらはほんの一例に過ぎません。本格的な解明には、少なくとも一方において、コンピュータサイエンスと情報通信技術の全体構造を解明する技術論が不可欠ですし、また他方において、今回論じたように労働のコア概念の拡張だけではなく、協業と分業を基礎とする労働組織の理論や、社会生活のあり方と結びついた労働市場の理論を含む新しい経済原論を組み立てなおすことが必須となります。今回はこうした大きなテーマの一端を論じただけで終わりました。機会があればまた、情報通信技術の原理、変容論的な労働組織論、労働市場論などについても話してみたいと思います。


参考

主催者から、はじめてマルクス経済学を学ぶ、あるいは、これから学びたい、という人に文献をあげてほしいということです。さしあたり、以下のサイトをご覧ください。

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