質問に答える:「労働概念の拡張」をめぐって


2021年10月23日の東経大学術フォーラムの報告に対して当日質問をいただきました。この場でお答えします。

私の報告の基本は、労働概念を三つの相に拡張しようという点にありましたが、残念ながら、この内容に踏みこんだ質問はほとんどありませんでした。ただ、そのために、経済原論の方法から見なおさなくてはならない、という広い意味で方法論に関わるものが多くあり、これはこれで、大切な第一歩だと思います。

本日のご報告は、「投下労働」による労働価値説の問題点にかなり限定して、労働のコア概念に関する議論となっていると思われるが、小幡原論体系における「労働」概念において、「労働の二重性」の問題を含めて、価値の実体的関係としての社会的労働の有機的質量編成の問題はどのようになっているか、もう少し説明してほしい。

「労働の二重性」云々というのは「具体的有用労働」と区別した「抽象的人間労働」の話しだと思います。この区別は『資本論』が商品価値を説明したところで「価値の実体」という考え方をつかったことに由来するものです。私は「商品には価値がある(「ある」を強調して「内在する」ともいいますが)」という命題はマルクス経済学の市場概念のコアであるが、これは「実体がある」「実在するのは実体である」という『資本論』の考え方を必要としない(逆に「ある」の意味を見誤らせる)と考えて、教科書(小幡道昭『経済原論:基礎と演習』でも「問題11:商品の使用価値に対する価値の規定は, さらに価値の形態と実 体とに二重化される. 商品の価値は,価格比として価値形態と,そ れを規定する労働の量関係としての価値実体からなる」 という人がいる. このような価値の形態と実体という対概念は必要か.」(30ページ)とたずね「必要ない」を正解としています。その理由は279-80ページの「解説」で学部学生にわかるように説明しました。

「社会的労働の有機的質量編成の問題」が「社会的再生産の編成の問題」なら、「マルクス経済学を組み立てる」で論じたように、「価値の実体的関係」によらずとも充分説明できます。

司会により、労働価値説の問題は取り上げないと言うことなので、質問の角度を変え、『労働そのものにつての質問としますが、小幡報告の労働概念の拡張と捉え直しは、労働の二重性における抽象的人間労働の概念念とどういう関係にあるのか、あるいは「社会的労働」の概念の拡張にもなっているのでしょうか?

上記の通りです。

20世紀の操作操縦型の労働と、AI時代の労働を「相」から考えるとその違いはどう説明されますか?

AIというのは狭すぎるので「情報通信技術とコンピュータサイエンス」というように広く捉えますが、そのうえで、これが「20世紀の操作操縦型の労働」とは異なる「変容態」を生みだしつつあることを、学問的に説明するには、労働概念の基礎から三つの相に拡張する必要がある、というのが本日の報告内容でした。

三つの「相」の関係は?排他的?同時存在?因果関係?

「排他的?同時存在?」はよくきかれる質問です。いろいろ考えていまのところ、「変容」という理論層(レイア)と区別して、「多態化」というもう一つ上層に設定するのがよい、という結論にたっています。

たとえば、コンピュータで色を処理するときに、赤R、緑G、青B という、光の三原色を使うのはご存じだと思います。いまご覧になっているディスプレイがこれです。何万、何十万か、細かいピクセルがならんでいるはずで、その一つ一つがR,G,Bの三つの光源を独自にもっているのでしょう。その意味で、R,G,Bが排他的です。はじめから三つが混じって発光しているわけではありません。これが「変容のレイア」に相当します。ここでは三相は排他的です。

しかし、ディスプレイの表面では#ffffeeeedddd のように、Rはffff、Gはeeeed、Bはddddという組合せで何万色にもなって見えるわけです。私たちは、排他的なR,G,Bを別々にみているわけではありません。こっちが「多態化のレイア」になります。このレイアでは同時存在ということになります。変容のレイアをベースにもつ多態化のレイアでは、労働の三相も同時存在するわけです。もちろん、労働の多態性を考察するときには、何万も考えても意味がありませんが。

労働のコア概念について質問します。資本主義のもとでの労働を考えた場合、主体Aが欲求Bを把握して、働きとして目的物を設定する行為は、「商品が他人の使用価値」であることと共通すると考えてよいのでしょうか。

「資本主義のもとでの労働を考えた場合」にはそうなります。商品の場合は、つくった「結果」を「選ばせる」というスタイルになりますが、その一段前に遡った他者との接し方がある、ということになります。これは先の教科書の109ページの問題72「商品は「他人のための使用価値」をもち,労働力は「他人のための労働」として発揮される. さて,この二つの「他人のため」は,どのように関連するのか,述べよ.」と問い、これにも312ページに解答と解説をつけておきました。

他者とのコミュニケーションを通じて初めて「目的」が明確化されるというなら,労働に「目的意識的活動」という単独の労働過程でも成り立つような定義を与えてきた点も,再考されるべきではないのか。 それに関連して,「自分自身の空腹感ならはじめから、たとえば目玉焼きのかたちで現れるでしょう。さきにモヤッとした空腹感一般がまずあって、それをなにでどうやって満たすか、悩むことはありません。」とあるが,そうでもないような気がする。漠然とした空腹感と種類と量が特定された欲求は,単独個人においても区別される。しかし自分一人だけの問題なら,適当になんでもいいから食べてしまえば空腹は満たされるので,あまり目的意識的活動が要請されない。他者がいてはじめて,労働と呼べるような人間的活動がなされるのではないか。

「他者がいてはじめて,労働と呼べるような人間的活動が明確になされる。」=「明確化される」と本日の報告で述べたとおりです。本日の報告で「労働に「目的意識的活動」という単独の労働過程でも成り立つような定義を与えてきた」わけではありません。

本論では省略されたようですが、まったくの素人で申し訳ありませんが、マルクスの労働価値説、剰余価値説は、現代の情報技術ITの時代にもあてはまるのでしょうか。是非教えてください。折戸真

理論として、「労働価値説、剰余価値説」が課題としていることと、「現代の情報技術ITの時代」で考察すべき課題とは、区別すべきだ、と、本日の報告の1で述べました。たしかに「現代の情報技術ITの時代」における賃金の問題、純生産物の分配の問題も重要なテーマです。「労働価値説、剰余価値説」はこの分配の原理を分析する基礎になります。しかし、それは基本原理に焦点をあてたもので、それにさまざまな要素を追加してゆけば、現実にどんどん近づけてゆける、という性質のものではありません。「あてはまる」というとき、抽象化すれば、資本主義のもとでの分配原理が共通している、という意味では正しいのですが、逆にこれを複雑化してゆけば、現実に近似してゆく、というわけにはゆきません。

資本主義の発展段階において、労働がどのように変容してきたのか。「三つの基本相」を分析の基準として、資本主義の下での労働の変容を考えたとき、基本相の要素である“コミュニケーション”、“技術”、“技能”、“操作操縦”などは、歴史的変容のもとでは伸長したり、縮小したりしながら変容するということになるのでしょうか。

基本、イエスです。細かいことをいえば、まず「変容」と「歴史的発展」(「発展」を「歴史的変容」とよぶ、でもOKでしょう。)を区別したうえで、「“コミュニケーション”、“技術”、“技能”、“操作操縦”」自体が「伸長したり、縮小したり」するというより、「歴史的発展」のもとで、それらの影響力が変わる、と私は表現しますが、これは自然言語につきまとうブレの範囲、好みの問題です。

専門外なので的外れな質問かもしれませんがお許しください。経済原論は、量子力学と古典力学のように、ある理論空間でのモデルであることを述べられています。量子力学と古典力学の間は、それぞれにおける理論空間における事象の説明をできるとともに、両者の理論空間の間の相違があきらかになっているものと思います。経済原論が経済学のひとつの理論空間であるということは、他の経済学体系との間にどのような理論空間の相違があるのかを示す必要があると思います。経済原論は唯一のモデルなのか、それとも異なる理論空間の経済学もありうるのかどうか、ということについてお考えになられていることをご教示ください。

「理論空間」という話に関心を寄せていただきありがとうございます。「(マルクス経済学の)経済原論は唯一のモデルなのか」という問題について、ノーです。唯一モデル論は「理論」に対する旧い考え方です。私は理論空間的な発想で、主流派のミクロ・マクロの経済学と向きあってきました。しかし、あちらサイドはこれが理解できないらしく、「マルクス経済学の『理論空間』など、いっさい認めない。経済理論はミクロとマクロしかない。これがグローバルスタンダードだ」というスタンスで、この人たちとは終始対立しながら、けっきょく「マルクス経済学を組み立てる」という論文を置き土産に大学を去ることになりました。

今日の報告では、マルクス経済学の特徴を活かすには、マルクス経済学自身もその内部に「理論空間」的な発想を明示して再構築する必要がある、という方向で話をしました。どうしようもなく頑迷なミクロ、マクロと目先の優位性を競うために経済理論を研究してるわけではありません。「歴史的に発展する資本主義を理論的に分析する」というマルクス経済学の基本課題に向かって、新しいアイデアをだし必要な理論的工夫を積み重ねることが肝要で、近視眼的な人たちが気にする優劣は、「理論空間」の適不適の問題として、いずれ歴史的に決着をみるでしょう。

労働論を「主体とモノ」の二分法から出発して展開するのは無理があるのではないか。例えばその場合,感情労働はどう説明されるのか。労働「主体」が,自分の感情を「モノ」としてコントロールするというのは擬制的に過ぎるように思われる。現代の労働を考えるためにはデカルト的な心身二元論の批判が必要ではないか。

今日話した労働概念の拡張は、たとえば「感情労働」が説明できないからダメ、というレベルの問題でありません。「感情労働」と言いはじめた人たちは、それなりの具体的な現象があったのでしょう。おそらく言葉としてのインパクトが「感情労働」にはあり、こう名づけたのだと思います。原論の抽象レベルに持ちこむには「感情」なるものが概念として構成されておらず、これが説明できるかどうか、には答えることはできません。

「デカルト的な心身二元論」なるものも内容がわからないですが、私に理解できるかぎりでいえば、心と身体を分離し、動物の身体は一種の機械だが、人間だけにはこの身体を離れて心がある、コギトする意識がある、というデカルトの主張のことでしょう。本日の報告はもちろん、こんな二元論にはたっていません。意識がつねに身体に拘束され、また身体を通じて作用することを強調しました。

労働論は今回のご報告の主題ではないことは承知していますが,感情労働についての取り扱い方に関するご回答には納得しかねました。対人サービスにおける顧客(の感情)は,外延をもった対象という意味での「モノ」ではあり得ないと思います。また,感情労働がコントロールするのは基本的には労働者自身の感情であって,顧客のそれではないとも思います。他者の感情は原理的に不可知である以上,コントロールできるのは〈他者の感情に働きかけようとする自己の感情〉だと考える方がよいように思います。だからこそ,感情労働論では「顧客に向けられた労働者自身の感情と労働対象としての顧客の感情」のうち,「主として前者が考察の対象」になってきたのだと考えられます(阿部浩之「感情労働論:理論とその可能性」『季刊経済理論』第47巻第2号,2010年,65頁)。このような労働過程を「目的意識的活動」という従来型の労働規定で描写しようとすると,「主体」の「意識」が自己の「意識」に働きかける,といった循環的なかたちになってしまって,説明になりません。「主体」と「モノ」,あるいは「身体」と「意識」といった構図で労働を捉えようとすること自体にやはり問題があると考えます。

上記の質問二つを合わせたような質問ですので、それぞれの回答をご参照ください。

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