『資本論』第1巻を読む III 第2回

第11章 協業

短い章で、内容も比較的まとまっていて読みやすいので軽く読みなしてしまいそうですが、資本主義の本質を考えるうえで無視できないところがあります。たしかに、資本主義的生産の基本が、独立の小生産者には手が届かない大規模生産にあるのは確かです。だから、分業ではなく、協業こそが資本主義的な労働編成の基礎である。この命題は、このあと『資本論』第1巻の後半体系を支配し、資本の蓄積で大資本が小資本を淘汰するという集中集積論に通じてゆきます。しかし、単純に<規模>の問題だけではありません。無視できない協業の根本問題は「労働過程」との内在的なつながりに潜んでいます。今日の労働の変容を理論的に理解するためには、この埋もれた部分を掘り起こしてみる必要があります。そのために、資本が労働と生産を組織するとき、決定的な意味をもつ協業の概念は、分業と理論的にどう区別されるのか、両者は一体となって現象するわけですが、今回はこうした原理的な区別を探ってゆきたいと思います。
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『資本論』第1巻を読む III 第1回

第10章 相対的剰余価値の概念

「『資本論』を第1巻を読む」という読書会ですが、3年目に入りました。今回は第4篇「相対的剰余価値の生産」に進み、第10章「相対的剰余価値の概念」を読んでみます。短い章で、相対的剰余価値の概念自体については解釈で意見が分かれるところはそれほどないと思います。ただ、「特別剰余価値」や「強められた労働」をめぐっては議論が必要でしょう。さらに、個別と総体の関係の処理については、『資本論』の方法に関わる問題があると思うので、ここらを議論してみたいと思います。

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「自著を語る」を語る

「自著を語る」というタイトルで原稿を依頼され、恥ずかしながら恥ずかしげもなく、『労働市場と景気循環 — 恐慌論批判』についてこんなこと『変革のアソシエ』No.24,2016.4.)を書いてみました。なんで恥ずかしいのか、っていうと….

なんで恥ずかしいのか、っていうと、典型的な再帰パラドックスに陥るのがミエミエだからです。「かつて自著で語った《自分》と、これから自著について語る《自分》は、どういう関係にあるの?」って…

私はむかし、「おまえはXX先生のご著書を誤解誤読誤解釈しておるぞ、私は先生にその真意を伺っておる」とお叱りをうけたとき、「著書というものは、書かれた時点で客観的なテキストに確定されるのであり、このテキストに対しては、著者も他の読者と同じ位置にたつんだ、自著も他著も、真意もラッキョウもないでしょう」なんて、思わず見得を切った都合上、今さら「自著を語る」なんていうタイトルで書くわけにいかない身の上なのです。

少し真面目に取り組む気なら、「自著」の著者としてではなく、あらためて一人の読者として、その著書がどのように読めるか解釈し、読みとった命題の真偽当否を批判するべきなんでしょうが、残念ながらまだそこまで自分の研究は前進していません。やはり著者として、この本について解説めいたことしか語れません。すると、著書そのもの(P)と、この「自著を語る」で追加的に語ったこと(P’)とは、どのような関係にあるのか、第三者の目でみると、多分(P)と(P’)の間にズレがでてくるはずでが、当人の目には(P)も(P’)も一体のものであり、(P)を批判されると(P’)を読めばそんな批判は真意を誤解していることがわかるはずだ、といった話になります。

実は、マルクス経済学を長い間やってきて、この種のやりとりに、もうかなりウンザリしているのです。なにせ本家本元のマルクスがシコタマ草稿を残してくれたので…(草稿をたどってみるのが無意味だといっているのではありません。新しい理論を考える重要なヒントとなるでしょう。ただ、テキスト解釈で「それは誤解だ、ちゃんと理解してしていない…」と門前払いすることばかりが頭にあって、肝心の理論の真偽適否をトイメンで論じることを避ける、そういうタイプの議論のしかたにウンザリしているのです。こういっても、「やっぱり、あいつはマルクスをないがしろにしている」と反感をかうことは覚悟していますが。)

話が横道に逸れますが、その意味で、アダム・スミスが草稿や手紙を焼いちゃったのは卓見ですね。それでも、東京大学経済学部にはこのスミスの蔵書の一部があり、こんなものがあるだけで、「そこにある書込に、もしやスミス自身のものがありはせぬか、大部分は違うだろう….でもどっかにちょっとは、スミスの真意を示唆する書込が埋もれているんじゃないか」などとつまらぬ穿鑿をしてみたくなります。ただ私自身は、もっとアッサリと、理論は理論として論理を追求するのが第一で、それをだれがいおうと、真偽が変わらぬのが理論だと考えたいのです。もちろん、この「考えたい」というのは、論理的でてくる結論ではなく、ただのドグマ、あるいは私の好みにすぎないのですが…

さて、そんなわけで初々しい若者に「自著でちゃんと語れないから、あとで自著についてあれこれ語るんじゃないですか、それでまた、だれかに批判されると、実は私の真意はこうなんだ、なんて、弁明を繰り返す、そんなのアリですか?」なんて問い詰められると二の句が継げません。かといって、だから「ワタクシ(どんなクシだか?)は筋の通らぬ(この髪じゃムリだ)ことはキライです、自著を語るというタイトルじゃ、書きません」なんて苦虫噛みつぶしたような顔で断れば「まったく困った爺さんだ」ということになります。この種の頑固な爺さんたちに若いころ、さんざん苦労させられた私としては、この歳になっても、あんな爺さんだけにはなりたくない、とただただ願うのみ、ということで、恥ずかしながら語ってみた次第です。