『資本論』第一巻を読む V:第8回

  • 日 時:2018年 12月27日(第4木曜日)19時-21時
  • 場 所:文京区民センター 2階 E会議室
  • テーマ:『資本論』第1巻 第24章第4-6節

第24章「いわゆる本源的蓄積」その2

第4節から第6節まで読んでみます。第24章は大きく区切れば三部構成です。

  1. 第1節から第3節は「鳥のように自由なプロレタリアートの創出」がテーマでしたが、
  2. 続く3つの節は「資本家たちはどこからきたのか?」がテーマです。
  3. 最終第7節の「歴史的傾向」は「資本主義のゆくえ」がテーマです。

1と2を合わせれば、資本主義の生成が説明できそうですが、そう簡単にはゆきません。こうした通俗的解釈に疑問を投げかける力は身についたはずです。純粋資本主義論の単一起源説か、はたまた変容論的原理論による多重起源説か、資本主義化の道を単線的に考えるか、複線的に描くか、が分岐のカギになります。

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『資本論』第一巻を読む V:第7回

  • 日 時:2018年11月 22日(第4木曜日)19時-21時
  • 場 所:文京区民センター 2階 E会議室
  • テーマ:『資本論』第1巻 第24章第1-3節

会場費200円です。ご自由にご参加ください。

第24章「いわゆる本源的蓄積」その1

今回から3回ほどでこの章を読む予定です。書かれている事例は14,5世紀から、と古く、対象もイングランドが中心で、現代とはかけ離れた昔の話と考えがちですが、問題にされているのは「資本主義はどのように発生したのか」という重要なテーマです。あるいはもっと一般的な言い方をすれば、「資本主義はどのように発生するのか」という問題です。こう考えればストレートに現代と結びつくはずです。20世紀末にグローバリズムというバズワードでスポットが当てられた新興資本主義の台頭という現象は、見方を変えれば、資本主義の発生問題を再考するよう迫っているのです。

この章は、従来、”「原理論」の本体ではない”という読み方がなされてきたのですが、背後にはかなり理論的に構成された内容が含まれています。いま『資本論』を読むとすれば — 歴史は歴史としておもしろいのですが — 思いきって理論面を抽出して読んでみるのがよいと思います。

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『資本論』第一巻を読む V:第6回

  • 日 時:2018年10月25日(木)19時-21時
  • 場 所:文京区民センター 2階 E会議室
  • テーマ:『資本論』第1巻 第23章第4-5節

会場費200円です。ご自由にご参加ください。

第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」その3

 

前回入れなかった第4節と、第5節「資本主義的蓄積の一般的法則の例証」を読んでみます。第4節は「一般的法則」が生みだした産業予備軍の話ということでひとまず了解できるのですが、第5節はどういう意味で「一般的法則の例証」なのか、昔から悩ましい節です。「例証」なので、当然、具体的史実がふんだんにでてきますが、とくにテキストの解釈が分かれる難しい内容ではありません。

しかし、この節は何度読んでも、資本構成の高度化から産業予備軍の累積を説く一般法則からみると、ズレているような気がします。下手をすると、一般法則の内容まで、資本主義のもとでは貧富の差が広がるという、当時のジャーナリストがしきりにレポートしていた、通俗的な社会批判になりかねません。『資本論』を読まずに、労働者の生活困難を論じている書だと先入観をもつ人には都合のよい「例証」になりそうですが、それだけなら、ここまで理論を積み重ねる必要はないでしょう。

あるいは『資本論』が書かれ出版された状況に照らして理解すべき、何か特殊な事情があったのかもしれません。とくに最後の「アイルランド」は、おもしろいのですが、「一般的法則」からはずいぶん距離があります。それでも、『資本論』を刊行するにあたって、1867年の時点で書いておかなければならない何かがあったのでしょう。『資本論』を古典的なテキストとして「読む」というこの読書会の趣旨からは離れますが、少し観点を広げて考えてみる必要がありそうな節です。チャーチスト運動の熱気がさりヴィクトリア朝の富裕化してゆくイギリス労働者に社会主義の未来をみるのか、あるいはアイルランドから追われ合衆国に流れ込む移民に新たな周辺革命を展望するのか….改革か革命か

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仮想通貨の貨幣性・非貨幣性

2018年度の経済理論学会大会が10月13-14日に立命館大学で開催されます。この大会での報告論文 ver. 0.254 です。報告用スライドも掲示しておきます。仮想通貨そのものの分析ではなく、こうした現象を理論的に分析する方法論が中心内容です。ちょっと誤解をまねきかねない、きわどいタイトルかもしれません。

… ということで一昨日(2018年10月13日)発表してきました。口頭発表用の短い原稿も準備したのですが、時間制限がシビアで、最後の8頁(肝心の仮想通貨を多態化の「フェーズ I → フェーズ II」 で説明した部分)を話す時間がありませんでした。

同じ日に、大会共通論題で半田正樹さんの「グローバル資本主義の『資本主義度』を問う」という報告をききました。最近のキーワード として、グローバリズム、市場原理主義の浸潤、情報資本主義、経済の金融化、経済原則の欠壊、生態系の毀損 の6つを手際よく解説したあと、要するに、いずれのキーワードをみても、資本主義が資本主義たりうるに要する「資本主義らしさ」が低下し「亜資本主義」に化しつつある、という話でした。私はきいているうちに、だんだんとデジャブに陥りました。でてくるキーワードが目新しいので、はじめ、わからなかったのですが、「あ、そうか、資本主義の不純化論のニューバージョンか」と納得しました。

資本主義が本来の資本主義から乖離し非商品経済的な要因への依存を高めているという不純化論は、宇野弘蔵の場合には帝国主義戦争に結びつけられていたのですが、その後、戦後の冷戦構造のもとで、インフレ型国独資論や福祉国家論など、別のかたちで宇野支持者の手で再版されてきました。私はこうした話をききながら育ってきたので、新しい現実に直面したとき、不純化という発想になるのはよくわかります。が、一度目は悲劇として、二度目は茶番として、ということもあります。「経済原則をみたしてきた昔の資本主義はそれなりにまともだった、それに引きかえ、今の資本主義は…. 」という一種のノスタルジアでしょうか。

私はこのムードに最後まで馴染めませんでした。「昔も今も、資本主義はそれなりに新しいものとして勃興するのだ」(多重起源説)と反発し、そのベースになるような新しい原理論を組み立てること(変容論的アプローチ)に専念してきたのです。半田さんの報告はよくできているので、おそらく宇野支持者にも、また反対者にもわかりやすいものだったろうと思います。なにせ、お互い、わかっていることに結びつけられる話ですから。「継承」とか「発展」とかいうのでしょうか。「批判」「切断」型の私は、きいているうちに視野がどんどん収縮してゆくような気がして、思わず知らず「ずいぶん遠くにきたものだ」と一人つぶやきながら会場をあとにしました。